2014年9月15日月曜日

カンフー映画があればこそ

 『燃えよドラゴン』の中で、ブルース・リーは散打を演じてみせる。相手と向き合い、お互い拳を打ち出すことも、それをかわすこともできる位置に立って息を整える。

 一瞬、ブルースが早く、相手の巨漢の外国人が殴り飛ばされてしまう。

 その拳が早すぎて、心ない人はこういった。実際に撮影したフィルムを、早送りで再生していると。

 しかし実際は違った。(この方法は五福星以降のジャッキー作品に顕著になる)

 ブルースの拳が早すぎて、手が残像しかフィルムに映らない。そこでフィルムの回転数を上げて撮影し、逆にゆっくり再生した。つまり我々がこのフィルムで見ることができる動きよりも、ブルースの拳は早かったのだ。

 というようなことを、知ると、嬉しくなってくる。

 高圧的な強面の敵には冷ややかに笑みを含み、一瞬で殴り倒す。無比の強さを持ちながら、父親の前では不安で、もじもじしたり、綺麗な女性に見つめられると、はにかんで顔を伏せる。

 かっこよくて、美学があって、しかも強い。ジャッキー・チェンの自伝をみると、当時の香港の若者はほとんど、ブルースに夢中になったという。

 それまでの映画の主人公は、公明正大で、高潔で、明るく親孝行だった。(ワンチャイ・シリーズのジェット・リーのようなイメージ)

 しかしブルースが演じた主人公は、生意気で強くて、我武者羅だった。当時の若者そのものであったという。(ジャッキー自身、同作品でブルースに背後から襲いかかるが、髪を掴まれ殴り飛ばされるという端役を演じている)。

 単なる強さだけではなく、共感する魅力を持っている。大げさな奇声と、ファンクな曲が取り上げられがちだが、現在の格闘シーンのフォーマット全ては、彼の文法を基準に作られている。

 カメラアングルや殴り合うときの動き方などは明白で、ブルース登場以前のアクション映画と見比べれば、それは一目瞭然というべきだろう。

 だが、ここで問題にしたいのは、ブルースの偉大さではない。そんなことは誰もが知っていることだろうと思っているから、割愛しよう。(笑)

 少なくとも、自分にはブルースやジャッキー、ジェット・リーがいて、彼らを登場させる作品群があった。

 最近になって、なぜ、自分が十代の頃、アイドルに詳しくなかったのか、よく分かった。

 十代の頃、アイドル文化の担い手はいくらでもいたのに、実はうろ覚えなのだ。そのかわり、ジャッキーに夢中だった。

 だから、こういう問題は作れる。

 ジャッキーの仇役として、ファイトする俳優はスタントマンとしての高いスキルと、的確な演技が求められる。そのため、どの映画でも、彼が育てたスタントチームが端役になることは多い。当然、ゲストで登場する敵役は、毎回異なる。(日本の真田広之すらラッシュアワー3で一度だけ器用されている)

問い。
 しかし顔や台詞があってジャッキーと二回、ファイトしている、唯一の俳優は? またその作品は?

答え。
 ベニー・ユキーデ。スパルタンXとサイクロンZである。

 キックボクシングの選手で、安定した回し蹴りを使いこなし、燭台の前のジャッキーを蹴ろうとするが、それがよけられる。代わりにろうそくの火が全て消える、というこだわった演出が印象的(スパルタンX)である。

 低い体勢から打ち合うという、ジャッキーのフォームに似ているため、実に相性がよく、ファンのなかでも、彼のファイトシーンは有名である。

 さらにいうなら、二作品はともに、プロジェクトAよりも、はっきりとしたキャラクターで、幼なじみのサモ、ユン・ピョウと“幼なじみ“という設定で競演しており、ジャッキー作品の中でも出色のものである。

 映画監督として、ブルースの元で修行し成功していたサモと、スタントマンとして幼少の頃から非凡な運動神経を見せていたユン・ピョウとの競演である。皮肉にも盟友との競演によって、ジャッキー自身のアイデンティティを明確に主張する必要があり、それがユキーデとの競演という形で結実している。

 面白い。めちゃくちゃ面白い。だが、十代の当時のアイドルはほとんどうろ覚えなのだ。

 なぜか。

 異性に対して興味はあったし、恋愛に興味があった。

 だが、自分が女性にちやほやとされるようなタイプの容姿や、顔立ちではないと気がついてから、あまり重点を置かなくなった。

 こっそり手をつないだり、二人きりでソフトクリームを食べにいったり、観覧車で肩を寄せ合ったり、そんなことに憧れたが、そんなこと無縁であると、早いうちに気がついて途方に暮れた。

 その代わりに夢中になったのは、ジャッキーのアクションである。時計台からの落下。絶壁から気球へのダイブ。デパートの吹き抜きにある電飾ポールへのジャンプ。奇想天外なアイデアで、必死の形相の敵たちから武器を取り上げたり、あっと飛び去ってしまう軽やかさ。

 愛されないし、愛しても嫌われるのだから、アイドルが演じるような恋愛劇に興味を持たなくなった。(実際、大根芝居を撮影し、不自然なアフレコと、鼻声で構成される角川映画など、見れたものではなかった。)

 積み重ねた段ボールに、飛び降りるジャッキーのほうが、はるかに真剣だったし、はるかにかっこよかったし、はるかにリアルだった。(現代ほどCG技術が発達していないから、ジャッキーは本当に飛び降りるしかなかった。またジャッキー自身、ブルースの後に成功した香港映画俳優ということで、ブルースのようなカンフー・スターであることを強要されたが、彼自身は功夫を学んでおらず、自身をスタントマンと自負していた。カンフー・スターをいうなら、ジェット・リーを指すべきである)

 恋愛のキューピッドに見放されたが、そこにはアクション映画があった。それが偏執ではなく、十代の男性らしい嗜好として、看過された。親指と人差し指と、中指だけで、貴様は二番目で、俺が一番であるとジェスチャーで示すことのできるブルースに陶酔した。

 そして、今になって、ふと疑問に思うことがある。

 自分にとって、夢中になれるのは、上目遣いの黒目がちな女の子ではなく、奇想天外なスタントを見せてくれるアクション・スターだった。あっと驚いた表情の、次の瞬間、華麗なスタントを繰り広げて、マジカルなスタントを見せてくれるジャッキーだった。

 顔立ちの綺麗な同年代の女の子に愛されなくても、全然構わなかった。どんな相手とでも戦って勝てるジャッキーや、ジェット・リーが強さを代弁してくれたからだ。

 それが幸いであった。

 同世代の女の子の関心を引く努力が空しく終わることを、早くに知っていたから、その隙間を埋めて余りある、ジャッキーのスタントは全てだった。

 しかし、ふと思う。

 もし、同時代に、女性の立場だったら、どうだったろう。ブルースとチャック・ノリスが、ジャッキーとベニー・ユキーデが、ジェット・リーとドニー・イェンが、最高のファイトを見せてくれることを語るのは、女性の趣味として決して歓迎されるものではないだろう。社会通念的にだ。

 キューピッドに肩をすくめられた、女子たちはどうしていたのだろう。

 彼女たちの不幸はどうやって、あがなわれたのであろうかと想像してしまう。

 自分にブルースやジャッキーがいたように、恋愛とかけ離れているが、面白くて仕方がないものがあったのだろうか。

 実は今、そのことが非常に気になる。

 しかし、現在同年代の女性に尋ねてみるのは気が引ける。見るからに、あなたは思春期に恋愛に燃えていたタイプでないですよね。当時のことで、ちょっと聞きたいことあるんですが。


 到底、無駄に波風を立てずには、おられないだろう。誰か代わりに聞いてくれないかなぁ。

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